阪神大震災から30年
1995年1月17日の阪神大震災から30年が経過しました。当時の記憶を断片的に少し思い出すと様々感慨深いです。
大きな地震にびっくりして飛び起きて、父と妹と1階の台所に降りてきたら3人で、あれ、お母さんは?ってなって、2階で気付かず寝てたのが当時もおかしくてホッとして皆で笑った記憶があります。
テレビをつけると、どうやら神戸大阪が大地震らしいけれど電車がどうなってるのか?大学は授業があるのか?わからないので、とりあえず行ってみよう、そうすれば皆の様子がわかるはず、と自宅を出て電車に乗りましたが、途中で折返し運転になりました。途中も少し余震があってドキドキしました。
当時私は大阪医科大学1回生の冬で、妹は高校3年生で大学入試センター試験が終わった翌日だったような。
幸い大学の同級生は全員生命無事やったけど、何人か上の学年で亡くなった人も居たらしいです。木造住宅に住んでる人が少なかったのかもしれません。長田区から通学してた子は自宅全壊したと数ヶ月経過してから知りました。2月の進級試験は、大学が神戸からの学生は別に試験日程を設けることになりました。阪急電車もJRも普通で途中まで2〜3時間リュック背負ってヒッチハイクして通学してた男子も居ました。中にはボランティア活動に参加してた男子医学生も居て、被災地の厳しい現実を経験したと語っている子も居たように記憶しています。
数ヶ月経ってから、神戸の親戚の様子を見に行く、と父がお米などお見舞いを持って出掛けて行った記憶があります。
当時の映像を見ると、日本が若い人が多い国だった=私自身も若かったのが、今と全然違うな〜と感じます。スマホもインターネットも無いけれど、老若男女皆が自然に言葉を交わしている社会が活き活きと美しく見えます。被災者なのに関西人は皆カラフルな色の服装で、30年前の方が世間の様相が明るく見えます。
近い将来もし南海トラフ巨大地震が起こったら、スマホやインターネットが使えず、水道や電気などのインフラが寸断されて、公共交通機関が麻痺してしまったら、今の私達は30年前の神戸の人達のように協力し合えるのでしょうか?正直不安も感じます。若者が少なく高齢者だらけで、コミュニケーションの取れない外国人だらけでは30年前のように自助共助体制は困難かもしれません。
コロナ禍パンデミックの2021年に西宮市のワクチン接種業務に従事した際に、神戸大や兵庫医大の医師や看護師さんと一緒にお仕事する機会がありました。彼等の徹底したチームワークは阪神大震災の災害医療に起因するものだと実感させられました。
歴史的にも奈良は全国的に地震が少ないエリアではありますが、伏見〜木津川エリアなど比較的地震が多いエリアも隣接しています。地震などの災害は決して他人事ではなく、常に防災意識は高めておく必要性を改めて感じます。